参加申し込み・お問い合わせはenishinoza@gmail.comまたは080-5138-3411松井まで

津波で被災した大船渡市吉浜地区の防波堤
南海トラフ巨大地震の際の津波波高15メートル!との想定を受けて思考停止状態に陥りかけていたそんなとき・・・・
企業より多額の寄付を得て、これ幸いとばかり防潮堤を建設しようと言う流れにある浜松市
しかし、今回の東日本大震災では防潮堤・防波堤の類はことごとく破壊され「勢いを緩めたかも?」とか「無いよりはましだったかも?」という惨憺たる結果となっています。
安心感を演出しようとする行政と経済界の利害が一致したためにトントン拍子でことは運ぶでしょう・・・・
巨額の寄付をされた企業には敬意を表しますし、防潮堤が建設されることには反対はしません。しかし、その「安心感の演出」が津波対策に対する「市民の油断」を招き、現実に被災したときに「命の危機」を生むのです。
たとえ立派な防潮堤ができても「避難地の確保」「市民それぞれの津波対策」は決して忘れ去られてはいけません。
この会では浜松市の津波対策の現状とこれからの動きをもとに、市民同士の意見交換から市への質問・提言などをまとめ提出。
「防潮堤ができる?」
「それじゃもう安心だ!」
という最悪の風潮・雰囲気を生み出させないような強力な発信と行政との関係構築を考えます。
企画名:第1回 命を守る津波防災座談会
日 時:平成24年6月24日(日)14:30~16:00
会 場:可美公園 第1研修室 (浜松市南区増楽町920-2)
参加費:一般1,000円 学生500円(会場代・資料代・活動費として)
定員:50名程度
企画・主催:災害被災地支縁団体 えにしのざ
参加申し込み・お問い合わせ:6月23日(土)までにenishinoza@gmail.comまたは080-5138-3411松井まで
会の流れ(予定)
14:30~
・えにしのざ活動紹介
・津波映像・被災画像上映
15:00~
・浜松市の津波対策について
15:20~
・参加者同士の意見交換会
15:50~
・意見集約・発表
16:00頃 閉会
以下読売新聞記事
太平洋沿岸を襲った大津波は、世界有数の規模を誇る三陸海岸の防波堤を軒並み破壊した。
早稲田大学の柴山知也教授(海岸工学)が19日午後、本社機で上空から視察し、岩手・釜石湾入り口の「世界最深」の防波堤を破壊した津波について、「時速1000キロ・メートルで飛行中のジャンボジェット250機分以上の運動量があった」と試算した。
釜石湾の入り口に南北からせり出した防波堤は、全長約2キロ・メートル。地震前は海上に高さ約8メートル、厚さ約20メートルでそびえ、港湾を守っていた。しかし上空から見ると、北側の防波堤は約800メートルにわたり大きく崩落し、かろうじて残った部分が海面に虫食い状に残っていた。海面に出た部分には、残ったコンクリートブロックが様々な方を向いて崩れた姿をさらしていた。
防波堤は、最深63メートルの海底に東京ドームの7倍に当たる700万立方メートルの巨大なコンクリート塊を沈め、その上部にコンクリート壁が構築され、2009年に完成したばかりだった。
国土交通省によると、1896年(明治29年)の明治三陸地震(マグニチュード8・5)の揺れや津波に耐えられるように設計され、「世界最深」としてギネス記録に認定されていた。
大船渡港(岩手県大船渡市)にある巨大な湾口防波堤(全長約750メートル、水深約40メートル)も完全に崩壊し、水没していた。柴山教授は、「地震で破損した箇所に高い破壊力の津波がぶつかり、一気に崩壊した可能性がある。予想をはるかに超える威力だ」と指摘した。
防波堤内側の海岸沿いにある「最後の砦とりで」の防潮堤も多くがなぎ倒された。同県宮古市田老の高さ10メートルの巨大防潮堤(全長約2・5キロ)は、住民らから信頼感を込めて「万里の長城」と呼ばれていたが、津波はそれを乗り越え、集落をのみこみ大きな泥沼を作っていた。
同県山田町の防潮堤も50~60メートルにわたり激しく倒壊し、灰色の泥をかぶった町には漁船や家々が、がれきと一緒に転がっていた。
柴山教授は、「全国的に防災対策を作り直す必要がある」と唇をかんだ。(金子靖志)
(2011年3月21日03時07分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110320-OYT1T00777.htm
以下西日本新聞記事より
東日本大震災の津波被害に遭った岩手県・三陸海岸の住民からは、過去の経験を踏まえて整備された頑丈な防潮堤の存在が「かえって油断を招いたのではないか」と反省する声が聞かれる。九死に一生を得た人は「過信がなければ、助かる命も多かったはずだ」と悔やむ。
「津波は、誇りにしていた日本一の堤防を難なく乗り越えた」。三陸海岸の北端、宮古市の田老(たろう)地区に住む70代の男性は堤防の上にたたずみ、がれきの撤去が進むかつての市街地を眺めていた。
田老地区は過去何度も津波に襲われ、明治以降も1896(明治29)年と1933(昭和8)年に壊滅的な打撃を受けている。これを教訓に翌34年から大規模な防潮堤の整備が進み、海面から高さが10メートルもある総延長2・4キロの大堤防が完成した。「田老万里の長城」と称されてきた。
今回、堤防の一部は粉々に壊れた。原形をとどめる所も、津波は難なく乗り越えて街を襲った。
「まさか、ここまでくるとは…」。同じ声を至る所で聞いた。
*****
大槌(おおつち)町で漁業を営む岩間卓哉さん(43)は地震発生後、高齢の両親に高台に逃げるよう伝え、海を見るため堤防の上に立った。大槌湾の水ははるか沖まで引き、堤防の約2キロ先、ひょっこりひょうたん島のモデルとされる弁天島の辺りまで干上がっていた。
「危ない」と直感し、近くにいた友人の軽トラックの荷台に飛び乗り「津波が来っから、来っから」と大声で呼び掛けて回った。ただ、みんなはきょとんとした表情で、本気にしていないようにも感じた。
サイレンも鳴らず、町内放送もなかったように思う。地震で壊れたのかもしれない。「『百パーセント津波が来る』『絶対に来る』と放送があれば、助かる人は多かったのではないか」。岩間さんは口惜しがる。
*****
避難を呼びかけるはずの行政の職員も、これほどの津波は想像だにしていなかった。
陸前高田市役所では地震直後、職員数十人が庁舎を出て玄関前の広場に集まった。建物倒壊の恐れがないことを確認して庁舎に戻り、災害対策本部を発足させる手はずだった。だが激しい余震で庁舎に戻れない。そうこうするうち大津波警報が出た。それでも男性職員(40)は「せいぜい1メートル、床上浸水ぐらいだろう」と高をくくっていた。
緊張が一気に高まったのは、防災無線が「堤防を越えました」「線路を越えました」と津波の急迫を告げたとき。庁舎に逃げ込むしかなかった。
陸前高田市で郷土誌づくりに携わってきた印刷業の金野(きんの)毅さん(73)は「経験が受け継がれていない」と感じる。三陸沿岸では津波で被災するたび、海抜の低い土地に新しい街が生まれてきた。
「津波に遭った人が土地を処分して高台に移った。代わりに安く広い土地を求めて商業施設や工場が集まり、次第に住宅もできていった」
「だから、津波の怖さを体験した人は少ないんだよね。そこに慢心も重なった」
金野さんは「ここに住んでれば津波注意報はしょっちゅうだし、空振りも多い。今回も『ここまでは来ない』と思って、家にいた人も多かったと思うんだねぇ」と話を続けた。
津波の体験談をまとめた本を読んでいた。「怖さを追体験していたから、自分は迷わず逃げられた」と思う。
今度は自分が語り伝えなければ。そう責任を感じている。 (本紙取材班)
2011/04/02付 西日本新聞朝刊
記事へのリンクは
こちら
参加申し込み・お問い合わせはenishinoza@gmail.comまたは080-5138-3411松井まで